一夫多妻を掲げる「令和の徳川家斉」の現在地——異色な生活様式が突きつける現代日本の「家族」と「個人」のリアル

目次
一夫多妻を掲げる「令和の徳川家斉」の現在地——異色な生活様式が突きつける現代日本の「家族」と「個人」のリアル
一夫多妻を掲げる「令和の徳川家斉」の現在地——異色な生活様式が突きつける現代日本の「家族」と「個人」のリアル
@ creator • Click to Play Video Inline
🎵 一夫多妻を掲げる「令和の徳川家斉」の現在地——異色な生活様式が突きつける現代日本の「家族」と「個人」のリアル

渡部 竜太という名を聞いて、読者はどのような姿を思い浮かべるだろうか。複数の妻やパートナーと同居し、定職に就くことなく生活費の多くを彼女たちに依存するスタイル、そして「子供を54人作りたい」という公言——テレビ番組やSNSを通じてその過激な生き方が拡散された当時、日本中に賛否両論の渦を巻き起こした。2026年を迎えた今もなお、その独自の家庭像と生き様は、人々の記憶から消えるどころか、むしろ多様化する現代社会における議論の対象であり続けている。

単なる「一風変わった男性の話題」として消費されがちだが、社会学の知見や家族観の急変という背景を重ね合わせてみると、渡部 竜太が体現する生活構造には、従来の「標準的世帯」が解体しつつある令和の日本の歪みや願望が透けて見える。夫婦別姓の議論や単身世帯の増加が進む中で、なぜ彼の言動はこれほどまでに人々の感情を逆なでし、あるいは一部で奇妙な関心を集め続けるのか。その深層に迫る。

「一夫多妻」を宣言した男の原点と常識への抗い

日本において法的な一夫多妻制は認められていない。重婚は明確に法律で禁止されており、婚姻届を提出できるのは1人の相手のみだ。しかし、彼はその枠組みをあっさりと無視する。事実婚や共同生活という形で複数の女性と暮らし、子供を育て、自らを「ヒモ」と称して恥じない。このライフスタイルは、一般的な勤労観や道徳観から見れば間違いなく異端である。

彼が語る動機は拍子抜けするほどストレートだ。「女性が好き」「多くの子供を残したい」。江戸時代の将軍・徳川家斉が53人の子供を設けた史実を引き合いに出し、それを超える「54人」という数字を目標に掲げる。一見すると荒唐無稽な妄想に聞こえるが、本人は大真面目だ。この常識に対する無頓着さこそが、彼の存在をネット空間で異様な異彩へと押し上げた。

「54人の子づくり」が示唆する少子化社会へのパラドックス

渡部 竜太

現代の日本は空前の少子化に直面している。子育てにかかる経済的コストの増大、未婚率の上昇、将来への不安。多くの若者が結婚や出産を躊躇する時代において、定職を持たない男性が多数の子供を儲けようとする姿勢は、あまりにも強烈な対比をなす。

「お金がないから子供を産めない」という言説が支配的な世相に対し、彼のやり方はある種のカウンターのように機能してしまう。もちろん、法制度や社会的責任の観点から賛同できる人は限定的だ。それでも、彼が提示する「金銭的・制度的枠組みに囚われない繁殖への意欲」は、少子化対策を議論する専門家たちの間でも皮肉な例として参照されることがある。

「ヒモ」という生き方の再定義と女性側の心理構造

渡部 竜太

一風変わった共同生活が成り立っている最大の要因は、パートナーである女性たちの存在だ。彼女たちは強制されてそこにいるわけではない。自ら働き、家計を支え、彼との生活を選択している。この関係性をどのように捉えるべきか。

外部からの批判者たちは「洗脳ではないか」「利用されているだけだ」と声を上げる。だが、関係者の証言やインタビューを紐解くと、そこには古典的な依存関係とは異なる力学が働いていることがわかる。家事や育児の分担、精神的な満足感、あるいは「普通の男性にはない圧倒的な肯定感」を与える能力。彼が提供する価値と、女性たちが求めるニーズが、歪みながらも合致している事実は否定できない。

SNS時代のセルフブランディングとメディア消費のサイクル

彼の名前が定期的にバズを巻き起こす背景には、過激な言動を面白がるデジタルメディアの構造がある。YouTubeやTikTok、ABEMAなどのWeb番組は、従来のテレビが踏み込めなかった領域の個人をキャスティングし、センセーショナルに報じてきた。

バズは消費される。批判のコメントが殺到すればするほどインプレッションは跳ね上がり、彼の知名度は高まる。彼はそのサイクルを正確に理解し、巧みに利用している節がある。「炎上」を恐れるどころか、自らの生き方をそのままコンテンツ化し、デジタル通貨へと変換する。2026年の今、この手のセルフブランディングはもはや珍しくないが、彼の場合はその題材が「家族」という最重要領域である点が異質さを際立たせる。

既存の「家族観」が崩壊する日本社会で何が問われているのか

昭和型の「夫が働き、妻が家を守り、子供を2人育てる」という標準世帯モデルは、すでに崩壊して久しい。事実婚、同性パートナーシップ、シェアハウスでの共同子育てなど、家族の形は多元化している。彼の家庭環境はその極端な変異種に過ぎないのかもしれない。

法的保障のない関係性がもたらすリスクは当然存在する。子供たちの将来的な不利益や、パートナー間の不平等を懸念する声は絶えない。制度設計が追いつかない中で、個人的な合意だけで成り立っているコミュニティは、ひとたび均衡が崩れれば脆い。それでも、彼らの選択は「家族とは何か」「契約とは何か」という根源的な問いを我々に突きつけている。

批判と共感が入り乱れる背景にある世間の「閉塞感」

なぜ人々は彼のニュースを目にするたびに強く反応してしまうのか。単なる蔑みや怒りだけではない。その裏には、社会のルールや経済的な重圧に生真面目に従い続けている人々が抱く、漠然とした不満や閉塞感が隠れている。

ルールを守って生きることが必ずしも生きやすさに直結しない世の中で、規範を軽々と飛び越えて平然と生きている人間の姿は、強い不快感を与える一方で、嫉妬に似た感情を呼び起こすこともある。彼の存在は、私たちが自らにはめている常識という枷の堅牢さを、図らずも逆説的に証明しているのだ。 (出典: 渡部 竜太(Yahoo!ニュース)